白木蓮








闇夜の中に、白木蓮の花が咲いていた。

宵闇というのだろうか、月と星の光がやたらと輝いており、道はそう暗くも無い。
片手にコンビニのビニール袋をぶら下げて、康平は白木蓮の白く浮かび上がるような花を見上げた。
がさり、とその動作でまたビニール袋が音を立てる。ちらと見下ろすとビニール袋の中に自分のビールと姪のためのチョコレート、姪に頼まれたスルメが眼に入る。コンビニに買い物に行くついでに買うものはないかと聞いたら頼まれたのだが、チョコレートはともかくスルメは何なんだろうな、とぼんやり思う。でもあの姪は少し変わっているところがあるから、スルメとチョコレートなんていう組み合わせも意外と不思議ではないのかもしれない。
ただ、頼む時に真剣な顔で、

『……猫ってスルメは食べると思う?』

なんて聞いてきたが。脈絡のない質問に半ば呆れながらも、食べるんじゃないのか、と返すと、姪は安心したようににっこりと笑って、それならスルメもお願い、と言ったのだ。

「……何だかなあ……」

呟いて、白木蓮をまた見上げる。

『ネコさんは、あんぱんをたべないの』

ふと、幼い声が耳に蘇る。
あれは昔、ずっと昔。まだ姉が生きていて、康平は高校生で、姪の亜莉子はたどたどしく話す子供だった。
ひどく神経の細かった姉は、亜莉子に辛く当ることがままあり、その度に康平は姉が落ち着くと思われるまで亜莉子を連れて公園まで来ていた。白木蓮の咲き誇る公園のベンチで、康平は打たれて赤くなった頬を押さえて俯く亜莉子に、いつもこう聞いていた。

『アリスのうさぎさんは、元気か?』

すると亜莉子はきょとんとした顔で康平を見上げて、そしてにっこりと笑い、嬉しそうに語りだすのだ。
その話は、かつて父親……義兄に読んでもらったのだろう、不思議の国のアリスを所々変えてアレンジしたような内容だったが、その“不思議の国”を語る亜莉子はとても嬉しそうで、幼いのに滅多に涙も見せない少女が年齢相応に見える数少ない時だった。

とても優しい白ウサギ。
灰色のフードをすっぽり被っているチェシャ猫。
大きな鎌を持っているが綺麗で可愛い女王さま。
大人びたトカゲのビル。
眠ってばかりいるお茶会のネズミと、亜莉子と喧嘩ばかりする帽子屋。
大きな獣だがおじいちゃんのように優しいグリフォン。

たどたどしく語る世界は奇妙ではあったが、全てが亜莉子に優しく暖かい世界だった。
それが現実世界で得られない暖かさを求めて作った、亜莉子の空想の世界であると気付いているからこそ、康平はその話を聞くたびに辛くなるのだが、しかし他に亜莉子を慰める術を知らなくて、結局は亜莉子が姉に打たれるたびに亜莉子のための“不思議の国”の話を聞いてやることしか出来なかった。
そんな自分だったからこそ、きっと。
あの日、姉が出て行った日も、何も出来なかったのだろう。

ただ手を伸ばせば良かったのかもしれないのに。


『さようなら、康ちゃん』


今でもあの日の姉の言葉が頭に蘇る。
康平はひとつ溜め息をつくと、白木蓮から眼を離して歩き出した。

……今度の日曜日。
姉の婚約者であった男……武村が亜莉子と会う約束をしている。
武村から会いたいという連絡が来て、亜莉子もそれを了承したので、康平としては気が進まないが三人で昼食を共に取る事になっている。
康平は詳しい事情は解らない。解らないが、あの一連の事件の原因に、武村が深く関わっているであろう事に気付いていた。亜莉子は知らないだろうが。いや、むしろ亜莉子は知らない方がいいだろう。

帰路を辿る足を止めて、康平は白木蓮の白をもう一度振り返った。

「……亜莉子は必ず守ります」

囁くような声で、小さく呟く。

(必ず、守りますから。……姉さん)

誓うように胸の中で呟き、康平は白木蓮を背に、また歩き出した。
家では母と亜莉子が待っている。
母の好きなあんぱんと、亜莉子のチョコレートと、亜莉子に頼まれたスルメと、自分のビール。
確かな現実の感触を手に、康平は帰路をゆっくりと歩いて行く。
白木蓮は、ただ静かに白く佇んでいた。








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